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TOP資料倉庫>明報周刊 2008.4.1 張國榮5年祭
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張國榮 5年目の追悼




命からがら逃げる際に足を打撲

 飛行機に搭乗ちょうどほっと一息つき、まだ搭乗中の人がいる時に、飛行機が突然前へ移動し、搭乗用タラップもぶつかってへこんでしまった。 われわれは哥哥が前日に自ら話してくれた体験談を思い出していた。「ある時マニラから国内線でバギオに行った時、半分ほど飛んだあたりで突然煙が立ちこめた。機体の扉に穴があいてたんだけど、フライトアテンダントはあわててタオルを持ってきて塞いでたよ……」幸いにも大事には至らなかった。

 西門町に到着、広場は人で埋め尽くされ、人の列は道の反対側までずっと延びていた。私達は押し合いをしながらようやくやっとの思いで上がった、そのステージは、小さく低くて、先から座り込んだファンでいっぱい、哥哥は人だかりの中を立ってパフォーマンスした。私は写真を撮るために立ち上がろうとしたが、ファンに引っ張られてしゃがみこまされた。哥哥がひとたび歌い始めると、現場はもうコントロール不能となり、事故発生を恐れた私達は、現場を逃げるほかなくて、近くのレストランへ駆け込み休んだ。

 プロモーションスタッフが駆け寄ってきて、哥哥にもう一度行くよう懇願し、陳淑芬は哥哥に危険なことはさせたくなかったが、哥哥は心優しく承諾した。広場の上のファンは再び鋭い叫び声をあげ、多くの人が彼と握手しようとし、情況はますます混乱してきた。哥哥は2曲を歌い、陳淑芬と3人のレコード会社スタッフの保護の下に幾重もの包囲網を突破した。

 レストランの中でやっと落ち着くと、哥哥は右足に痛みを感じ、白いズボンの上にまで血がにじんでいた。ズボンを引き上げて見ると、ひざは皮がこすれ、その上青あざまでできていた。命からがら逃げる時に車にぶつかったことをその時初めて思い出したのだ。

 3日目、 哥哥はドラマ《福禄喜》の特別ゲストとして4シーンの撮影を行い、大成功のうちに帰途についた。空港への途中、彼は上機嫌で粤劇の曲を次々と歌ってくれた。《十八相送》、《楼台会》、《訪英台》など、歌詞も習熟してなめらか、また任剣輝・白雪仙の《紫釵記》、《再世紅梅記》も歌い、あたかもプライベートコンサートのようで、私は大いに耳の保養をさせてもらった。機上では、彼は私にストーリーを話してくれ、彼は話し聞かせの達人でもあることを気づかされた。

 慌ただしくて短い3日間は、長い間、私の心の中の一角に残っていた。


栄光の引退、心残り、しかし悔いはなし

 1988年12月21日、レスリーの33ステージにわたる告別コンサートは幕を開けた。カーテンコールにこたえる時、彼の目には涙が光り、突然身をかがめて、舞台に置かれたファンの送った花を拾い、別れの感情を抑えて、流れる涙を飲み込んだ。

 ひっそりと静まり返る舞台裏で、哥哥は私に、ファンに対しては心残りがある、だからプロデューサーも要求しない位置まで歩き走っていった、と語った。「この業界に入ってから引退まで、公開したことはまったくないんだ。ショウビジネスの世界に入ってすぐ、自分がある一定の成績を残したら引退しようと決めていた。私は引退する芸能人を尊敬している。例えば任剣輝、白雪仙、尤敏、そして山口百恵。10数年前の百恵の引退は、テレビで見て、感動して涙がでたよ。自ら引退を望むのは女性の芸能人ばかりで、男性はいないみたいだ。」彼はジェームス・ディーンを思い出していた。「残念ながら彼はとても若くして亡くなった。芸能人をやっていくのに、自分の裏の裏までを見せるべきではないと思っている。そのようにしてこそ人の心に印象深く長く残ると思う。もしジェームス・ディーンが今も芸能界に残っていたら、間違いなく神話にはなっていないだろう。」


彼の心境の描写

 彼が東京音楽祭(87年6月)に参加した時、帰りの飛行機の中で、引退の考えを陳淑芬に伝えた。彼女は彼が冗談を言っていると思ったが、彼はその後この考えを、徐克、鍾楚紅にも伝えた。彼らも信じなかった。「ただ一人、本当に唯一、呉宇森だけだった、彼は私が言いだしたことを変えることはないとわかっていた。多くの人は今でもまだ私が本当に引退するとは信じていないようで、もし引退しても2年もすれば復帰してくるだろうと。しかし私はしないと思う。仕事が上手くいっていない時に考えたんだ。誰に強制されるのでもない、栄光の中自分で出て行こうと。徐小鳳の歌詞にある:渇望するのは心が豊かなこと、名声と利益は自分から求めるものじゃない(《随想曲》)、それが私の現在の心境です。」


自分の逃げ道を塞ぐ

 90年1月22日、コンサート最終日の夜、《風継続吹》を歌う時、我慢できずむせび泣いていた。黎小田もコンサート開始間もなく、涙を流していたが、哥哥は駆け寄り逆に彼をはげましなぐさめた。

 アンコールの際、哥哥は白いスーツでステージに上がり、再び《風再起時》を歌って、そして観衆席にカーネーションを投げた。その後はすべてまるでが停止してしまったかのようで、ステージ中央から白いスモークが上がり、透明なマイクスタンドがせり上がってきた。哥哥はゆっくりとマイクスタンドの前へ歩み寄り、しばらくじっと眺め、手に持った銀のマイクを挿すことで、マイク封じを示した。

 「マイクを挿したその瞬間、とてもたまらなくなって、私はしっかりと歯をかみ締め、鼓動は跳ね上がり、そしてとても怖かった。ただ自分を鼓舞するしかなく、これは絶対やらなければならない事だ、と。心残りの気持ちはあるが、しかし頭の中は真っ白だった。マイクを挿すようにしたのは、自分の逃げ道を塞ごうと思ったからで、もしただ手を振って別れを告げるだけなら、やはり私が引退することを信じない人がいるかもしれないと思ったので。」

 彼の計画は映画を勉強し、将来監督をやってみることだ。



主演男優賞受賞の夢 新たな出発

 90年12月、哥哥は引退前の最後の映画《縦横四海(狼たちの絆)》を撮影していた。私はピークの野外シーンの撮影場所へ彼を訪ねて行った。引退の話を撤回する可能性は?と彼に質問した。それは彼が名残惜しく思っていて、そしてファンも同じ気持ちなのを知っていたからだ。しかし彼は:「一度言った言葉は撤回できないよ。ショウビジネスの世界で長年やってきて、もう飽き飽きしたんだ。でも、映画を見るのはずっと好きだし、貴重な役を見ると、心は動く。100パーセントもう演じることはしないと言うことはできないが、しかし演じる可能性は極めてわずかだよ。」


頑固さを捨てる

 91年4月の香港アカデミー賞の授賞式で、哥哥は《阿飛正伝(欲望の翼)》で主演男優賞を受賞した。彼はその時すでにバンクーバーで引退生活を楽しんでいた。彼に長距離電話で話した。彼は「すべて運命だね。当初ウォン・カーワイは私で《阿飛正伝》を撮りたがったが、私は告別コンサートの準備があったので、特別ゲストとして2週間の撮影のつもりだった。しかし初めて会って、私は彼ら夫妻を非常に気に入って、意気投合して話しあった。この映画の準備期間は撮影期間より長く、まるまる9ヶ月待ってやっと撮影開始になった。ウォン・カーワイは私に演技を増やしても良いかと尋ねたので、どちらでも良いよと答えたら、結果特別ゲストから主演男優になり、賞までもらってしまった。」

 哥哥はこの賞をずっと渇望していて、「過去3回のノミネートは、3回とも全部出席したのに、3回すべてだめだった。今回ははるか遠くで受賞した、これは運命では?」

 賞とは役者にとって自分を肯定されることであり、よい作品を撮りたい、と再度心が動いた。いい加減な周囲は勝手気ままに論じた。「よい映画に出会って、自分の一言二言のために頑固になる必要があるか?私が再び映画を撮るのが、世の中に災いを残すわけじゃないし、レスリーは映画界に害をなすわけでもない、なぜ私が映画にでてはいけないのだ?」

 91年5月、哥哥は香港に戻り、主演男優賞を受け取った。彼は何本か協議中の映画があることを認めた。その中の1本はチェン・カイコーの《覇王別姫》である。この映画はリー・ピクワー原作で、レスリーはずっと彼女の中で「程蝶衣」候補者だった。その年の11月、ジョン・ローンが出演料減額で《覇王別姫》出演承諾のニュースが流れたが、しかし92年2月に再度めぐりめぐって、役は再び哥哥の手中に落ちてきた。


彼が最も程蝶衣を理解

 92年3月、哥哥は北京でこの映画のための準備をしていた。私は彼を訪ね、食事を一緒にした時、彼が言った。「私以上に程蝶衣を理解している人はいないだろう。彼は高潔の士を自任し、自己陶酔に陥る、そしてステージの下では学問のある上品な男性だ。10年前、私はすでにこのシナリオを受け取っていた。その時は香港電台のドラマで、私は《失業生》と《檸檬可楽》の撮影期限にぶつかっていて、断ってしまった。」

 この映画のオファーを受ける以前には、哥哥は全く京劇を見たことがなかった。程蝶衣のために、彼は毎朝稽古をし、午後は京劇を学び、舞台のせりふを練習し、名優を訪ね、夜は京劇を観劇し、ホテルでは鏡に向かって「授業を復習」し、梅蘭芳のビデオテープを見ていた。彼はなんと京劇の先生に言ったそうだ。「もし私が北京で生まれていたら、きっと非常にすばらしい名優になっていたでしょう。」

 北京の撮影所へ戻る道中、哥哥の美しい歩みはゆっくりで、蘭を摘む手、そして澄んだ目、先生と歩きながらも練習し、勤勉さは特出していた。彼は冗談で、香港の友人には北京に訪ねてきてほしくないと言った。「広東語を喋りたくないんだ、今では夢を見るのも普通話(中国語)だよ。」彼は完全に役に入っていた。

 彼の努力は無駄にはならず、《覇王別姫》は93年のカンヌ映画祭でまず国際映画評論家大賞を獲得、更にパルムドール賞を受賞した。これは中国人の映画がカンヌで初めて収めた快挙だった。哥哥もこの映画で、94年度の日本映画批評家大賞の最優秀男優賞を獲得した。




洗練された復帰 世間の嘲笑


 引退コンサートの後、レスリーは92年の《許冠傑光榮引退匯群星(サミュエル・ホイ引退記念)》番組の中で再びその歌声を披露、サムと《沈黙是金》をデュエットし、また自分が出演する映画の主題歌を歌った。

 誰もがわかっていた、哥哥がまだ歌を歌うのが好きだということを。95年6月、彼は台湾のロック・レコードと契約、正式に音楽界に戻った。アニタ・ムイがステージ復帰した際、彼はアニタに冗談で「美しいご婦人は寡婦のままではいられなかったね」と言ったが、今回は彼が復帰する番になり、周囲も自然と騒がしくなる。



続く

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