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TOP資料倉庫>明報周刊 2008.4.1 張國榮5年祭
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2055期 B  web版

張國榮 五年祭(5年目の追悼)

5年経ったが、いまだにあの日起こった事が真実だと思えない。あの夜哥哥の携帯電話を通して耳にしたのはいつものあの言葉:メッセージをお願いします;異なっていたのは、彼が折り返しの電話をかけてこないこと。

 少し前の夜、突然この番号にダイヤルしたくなって、しかしやはりじっとがまんした、それはこの番号が既に取り消され、彼の声がもう聞けなくなっていたら忍びないので。私は過去を引きとめようと試み、しかしそれは不可能なことを知っているが、しかしコンタクトしなくても、少なくともこの記憶を守りたいのだ。

 哥哥が病気を患っていた時(その時はただ胃酸の逆流の症状だけで、彼が鬱病だとは知らず)、私は彼にインタビューの約束をしたことがあり、彼は病気が治るまで待ってと言ったが、残念ながら実現することはなかった。

 かなりの時間をかけて、彼の芸能界での足跡を整理し、多くの記憶を思い起こした。心は痛み、本当にあきらめられない気持ちだ。




 薄い両親との縁 人生に遺憾



 「よく言われるんだ、レスリー、あなたは何でも持っていて、人生で遺憾に思うことなどないでしょう?って。実際は、少年時代に両親の愛を十分得られなかったのは、私にとって非常に残念なことです。」哥哥はかつてこのように言ったことがある。

 張発宗という本名を持つレスリーは末っ子で、母親は10人の兄弟姉妹(うち3人は不幸にも若くして亡くなった)を生み、父は有名テーラーの張活海で、多くのハリウッドスターが遠路はるばる香港に来て彼に仕立てを頼んだ。しかし、忙しい両親は、子供と顔を合わせる機会はわずかで、子供は祖母と住み、一家揃って一緒に食事をして過ごすことができたのは新年だけ。哥哥の小さい心の中で、最も彼をかわいがってくれたのは六姐、小さいときから彼を育てた乳母だ。


 イギリスで初めてのテスト

 六姐は哥哥がいつも口にする「身内」で、両親の事はほとんどしゃべっていない。86年のある日、 私は彼に:「あなたは結婚に対して恐れを感じているか?」と訊ね、彼は答えた:「ええ、両親の結婚は不本意なものかも知れないということは、私に影響を与えています。父は若い頃よく女の人と遊んでいて、私には二人の母がおり、以前二人は一緒に住んでいて、摩擦があったので、私が生まれる前に、一人はすでに外へ引越し、養女一人といるのですが、彼女たちとは20年以上会っていないので、もし街で会っても分からないでしょう。」

 「母はとても父を愛していて、多くの事をすべて辛抱してきましたが、数年前父は彼女にとって堪え難い事をしてしまい、二人は分かれてしまいました。私達七人の兄弟姉妹は、私以外で、ただ1人の兄だけが彼をお父さんを呼びます。父と母の事について、私がずっと中立を保ってきたのは、結局は彼が父だからです。」

彼は中二の時にイギリスで進学し、平日は学校の寄宿舎で、休みには傅聲(往年の俳優?)の実姉の家(代々の付き合いをしていた)に住んでいた。傅聲の姉はレストランをしており、この「菊花楼」にはバンド演奏があって、哥哥はここで初めて公衆の場でパフォーマンスをし、《Speak Softly Love》を歌った。

 審査員はえこひいきと指摘

 イギリスで4年を過ごした後、哥哥は香港に戻った。「私はAレベルが予科に相当することを知らず、香港に戻って中5(日本で言えば高2)に編入したが、合同試験の成績はひどいものだった。好奇心から、5ドルの申請料を払って歌のコンテストに参加した。」77年、麗的テレビ主催の《アジア歌唱大会》の香港の選抜大会で、《アメリカン・パイ》で第2位入賞、11ポイントの差で、優勝は当時麗的テレビの俳優訓練班訓練生だった鍾偉民の手に。鍾偉民と一緒に香港代表として出場。歌唱大会は8つの地区の代表、16名が参加、審査員すぐその場で判定し得点を読み上げた。哥哥の得点はその時点で第2位、マニラ代表の発表時に、審査員の最後の一人(マニラ)の判定が、自国以外の各地代表への点数がきわめて低く、会場ではブーイングの声。結果、マニラ代表が優勝し、香港代表はトップ3入賞を逃した。しかし哥哥のずば抜けたパフォーマンスは、麗的テレビの賞賛を得て、彼に2年の契約、音楽番組《水曜晩會》でのパフォーマンスをオファーした。

 「初任給は1,000ドル、9ヶ月後には3,000ドル、2年後には6,000ドルにまで調整され、当時では悪くないと言える。」

 彼は同時に歌謡界へも踏み出し、翌年1枚目のアルバム《Day Dreaming》を発売した。



 彼が好きになった異性



 レスリーの初恋はイギリスで、「つきあったのはわずか2週間だけ、彼女は去ってしまった。」

 芸能界に入り、麗的テレビで《愛情ストーリー》を撮り、哥哥と主演女優のテレサ・モウとの恋愛のウワサが流れた。記者が彼に聞くと、彼のあっさりと答えた:「そうだよ!」テレビ局の宣伝では?「最初はそうだった、宣伝用写真を撮影する時、私達に手をつなぐよう要求され、私はテレサに笑いながら:『君の彼氏になっても良い?』と言うと彼女は:『良いわよ!』と。撮影終了後、彼女がとても良い子で、とてもかわいくて、自分とすごく気が合うと思って、彼女に映画見る約束して、いっしょに遊びに行った。彼女に愛しているとか言ったことはないし、彼女も私に愛してると言ったことはないが、しかし私は本当に彼女が大好きで、彼女も私が好きだと思ってる。でも、彼女にはたくさんのボーイフレンドがいる。彼女とは違い、私はとてもいちずで、1人の女の子が好きになったら、ずっと彼女だけ。」彼は強調した:「まじめに考えています。」

 テレサにプロポーズ

 テレサ・モウは《娯楽熱売十時半》で哥哥にインタビューし、当時の感情について聞いた際、哥哥は自ら:「彼女には一目ぼれだったと言える、知り合ってすぐ、花束を抱えて彼女にプロポーズしてたんだ。」残念ながらテレサは彼の突然の行動に恐らくびっくりし、かえって彼と疎遠になった。その時彼は20歳、テレサはわずか17歳。哥哥はインタビューの中で感慨深げに:「あの年もし君がOKしてくれてたら、私の一生を変えてたかもしれないね。」

 79年、哥哥はディスコで米雪の妹のシドニーと知り会った;1年後、チャリティーバスケ大会の記者会見で再会、その後、彼は彼女を家へ送って帰り、すぐに、恋愛のウワサが出た。私は彼に確かめ、彼はまたあっさり認めた。

「彼女は超美人ではないが、しかしとても上品で、とても面白い。彼女はまわりから赤ちゃんゾウと言われる、と言う。」

 彼女はダンスが好きで、彼女に付き添いディスコに行く。彼はナイト・クラブの舞台に立ち、彼女は仕事を終えた後に応援に行く。彼がシンガポールへチャリティ公演をしに行った時、彼女にオレンジ色のロングスカートを買ったが、しかし彼女は:「私がスカートを穿くのは好きじゃないって知ってるくせに!」ただ、彼は彼女がスカートを穿いて欲しかった、女の子がスカートを穿いた姿は美しくて上品に見えると思っていた。この感情は線香花火のようなものだったかも。

 倪詩[サ/倍]との2年

 81年、彼は《甜甜廿四味》を撮り、主演女優の倪詩[サ/倍]が好きになった;82年には再度《凹凸神探》を撮影、倪詩[サ/倍]は「失踪」事件で、麗的テレビは彼女に契約解消を要求したが、哥哥はこの非難告発が倪詩[サ/倍]に対して不公平だと思い、立ち上がって彼女の為に証言した。

 何年も後に、倪詩[サ/倍]はこのことを言い始め、哥哥はとてもロマンチックな良い人だと褒めた「私達がつきあっていた頃、周りは誰も運転免許を持ってなくて、デートのときはいつも、彼は私の家に迎えに来てくれました、いつも1ダースの黄色のバラを携えて。私が好きなことを知ってたので。私達の付き合いは2年ほど、それから私はファッションデザインの勉強にイギリスへ行き、気持ちもだんだん離れていきました。」

 85年、彼に恋愛状況について尋ねた。彼は、彼女は米国で商科を勉強している、と言い「知りあって7年になるが、しかし付き合い始めたのは一昨年。多分以前の彼女はまだ若すぎて、私にはそういう感覚がもてなかったのかも。去年私は彼女の家のプールを借りてアルバムジャケットの撮影をしたことで、連絡をとる機会も多くなり、感情もますます良くなってきている。」彼女というのは、楊受成の長女、楊諾思である。

 翌年2月、哥哥は、楊諾思との感情はすでに終わっていると話した。「会うことが少なく、毎回顔を合わせる時はまるで初めて会うのような気持ちになり、昔の感じに戻ることがなかった。私はこれ以上引き延ばし続けるべきでないと思い、彼女のお父さんに話し、十分に理解してもらえました。また彼女にもきっちりと説明し、彼女はその時ほっと息をついて、私に言いました:『でもよかった、これで私はあなたが気になって仕方がない気持ちにならなくてすむわ。』」



みながこんなに彼を大切に思う



 才能プラス努力、レスリーはべつに一足飛びに偉くなったわけではなく、かつては失望や、堪え難い経験もある、「かつて1度失意に沈んでいた経験がある、どうして自分はいつも2番目の位置になるのだろう?しかしそれでもじっと耐えた。一番記憶に有るステージは、台風のイメージにあわせて、私はかぶっていた帽子を脱いで観衆に投げたら、それがすぐに投げ返されてきた、これは非常に悲しくて、穴があったら潜りたい気持ちだった。」

 手ぶらで帰って泣いた

 82年、彼は陳淑芬(陳柳泉夫人)に出会い、彼女は彼をスーパースターの位置へ押し上げる手伝いをした。あれは偶然の出会いと言える。キャピタルの幹部だった陳さんは、尖沙咀イーストの香満楼で哥哥に会い、琴姉さん(李香琴はその料理店の株主)が彼らを紹介し、二人は電話番号を交換した。彼女は彼とポリグラムの契約がもう満期になって自由の身であることを知り、再び会う約束をして、彼にキャピタル参加をオファーした。

陳さんとレスリーは同じく山口百恵が好きで、彼女は哥哥にも山口百恵ような良い成績を得て欲しいと、哥哥のキャピタルでの主力曲として《さようならの向こう側》をカバーした《風繼續吹》は哥哥が有名になる手助けをした。

 翌年初めの《十大勁歌金曲授賞式》では、無線テレビが哥哥に出演依頼したことが、哥哥が受賞したと陳さんに誤解させ、結果、哥哥はその晩座りっぱなし、手ぶらで帰ることになった。あの夜、早々にテーブル予約していた海城ナイト・クラブへ羅文の祝賀パーティーに行ったが、照明が暗くなった時に、陳さんは哥哥が泣いていることに気づき、親しい友人数人は彼を慰め続けた。

 84年、《Monica》1曲は哥哥の才能を花開かせた。更に85年のアルバム《為イ尓鍾情》は、ダブルプラチナレコードになった;同年8月、彼は初めて紅[石勘]体育館で10ステージのコンサートを開催した。

 黎小田との縁

 コンサートゲストに、彼の「良き妹」アニタ・ムイ、そしてコンサートの音楽総監督は、彼の「親子の契りを結んだ父」のマイケル・ライ。哥哥とマイケルの縁は、彼がアジア歌唱大会に参加した時から始まっており、マイケルはその時麗的テレビの音楽総監督で、大会の審査員だった。「マイケルは参加者全員に、歌う歌は3分以内とすると言い、しかし私が歌う《アメリカン・パイ》は8分もあり、彼は私に別の歌を選ぶよう要求した。私は同意せず、ずっと練習してきたし、この歌が一番好きだといった。私がこのために顔を真っ赤にして彼と争い、結局彼は譲歩した。そんなことがあって、彼は私が我の強い性格だと、私を気に留めるようになり、お互いを評価する感じになってきた。私がコンサートを開く時、彼に:『この数年来、あなたの歌を歌ってきたが、今回は、あなたが私の歌う手伝いをする番になった。』彼は即承諾した。

 「この馬鹿な人(マイケル)は、私のアルバム(《為イ尓鍾情》)の祝賀会で意外にも泣き出したんだ、彼は私を長年見てきて、ついにこのような成績をおさめ、嬉しく感慨深いと;私のコンサート開催決定の時も、彼はまた泣いた。」このりっぱな大人のマイケルは、こんな感性の持ち主。

 「第一次」(初コンサート)のために、哥哥は毎朝水泳、夜はジョギング。走った陸軍球場の1周は紅[石勘]体育館の上段3周分で、「始めた頃は、1周走るだけでとても大変だったが、徐々に4周まで増やし、今はステージ上で走ってもとても楽だと感じる。」目の前の哥哥は堂々として、筋肉は引き締まり、皮膚も日に焼けて、更にカッコ良い。

 コンサート二日目、彼は泣いた。「ご存知のように私は『フリをする』ことができない。デビュー以来長年、いろんな風波を乗り越えてきたが、しかしいろんな事があったあの夜、《勁歌》授賞式、六姐(彼を育てた乳母)のツバメの巣、そして観衆の反応、私は本当に我慢できなかった。」彼はコンサートのため《勁歌》授賞式の撮影現場へ自分が行くことはできず、また紅[石勘]体育館へ送り届けることもできなかった、と説明した――彼は本当に有名になった。


 阿梅との苦楽を共にした兄妹の情



 アニタ・ムイは生前私に語ったことがある:「私はとてもタフな人間だと思われていますが、哥哥の前でだけは、私は完全に素の自分に戻ることが、1人の女の子に戻ることができます。強い人間のフリをする必要がないのです。彼が私を守ってくれるから、彼は本当に私をとてもかわいがってくれる私の兄です。」

 レスリーとアニタの20年の感情は、彼がキャピタルへ入り、アニタがその年の最優秀新人賞を受賞した82年に始まる。「彼とはとても良いコンビ、良い仲間です。私達はキャピタルでいっしょにゼロからスタートし、彼がいると私はより安心できるし、彼も私がいると安心するのです。」

 2つの席で順番に寝たこと

 哥哥が85年に紅[石勘]体育館で初コンサートを行った時、特別ゲストはアニタで、彼はこれは会社の指示じゃなく彼自身の考えだと、私に言いました。「彼女とは良い友達で、彼女も近い将来自分のコンサートを開くだろう、彼女に観衆の反応を見る機会があったほうが良いと思った。歌手にとっては、1粒の鎮痛剤のようなもの。観衆のアニタへの喝采の声を耳にした時、心の中で:『アニタ、君は成功したよ。』と思った」

 アニタは仕事を始めたばかりの頃を思い起こしていた。2人でいっしょに埠頭を歩き、飛行機もエコノミークラスで、「私達は一番後ろの列に座り、シートの間の手すりを上に上げて、横になって寝ました。一人はシートに、もう一人はシートの下で、交代しながら寝ました。前だけを見て突き進む日々の中で、お互いに励まし合い、心配し、苦労も苦になりませんでした。」

 86年4月、哥哥とアニタは北米コンサートに行った。私は哥哥にその時の旅行のこぼれ話を聞いた。「ある時、私達がステージで歌っていた時、突然男性ファンがステージの下へ走ってきてアニタの足を引っ張ったんだ、彼女が穿いてたのはスカートで、幸い私が急いで彼女を引っぱり上げられた、下手すると彼女はそのままステージの下に引っ張りおろされてたかも。後で彼女は私に命を助けてくれてありがとうって言ってたよ。」

 刺激的なゲームはイヤ

 舞台の上で、彼らは自然で理想的なコンビだったが、しかし2人の性格と好みはとても異なっていた。サンフランシスコとロスで、みんなはディズニーランドへ遊びに行き、アニタは刺激的なアトラクションを楽しんだが、哥哥はただ見てるだけ、彼いわく:「彼女が好きなアトラクションはどれも私にはムリ。私は刺激的過ぎるのはダメで、遊園地は私にとって楽しむもので、細胞を殺すようなことはしたくない。何回も回転するジェット・コースターもイヤだし、何十階分もの高さから落ちるのを楽しむ(フリー・フォール)のは、もっとイヤだ、でもアニタはとても楽しく遊んでたよ。」

 彼と彼女はお互いを信用し、互いをいたわっていた。アニタは:「私達がホテルに泊まるとき、部屋は行き来できるようにします。ニューヨークに行ったある時、環境のよくないアフリカ系米人の多い地区に泊まったら、夜中に、いきなりアフリカ系の人が私の部屋に飛び込んできたのです。私はびっくりして大声で叫んだら、哥哥はすぐにやってきて私を守ってくれました。同室で、夜が明けるまでいろんなことを話しあったこともあります。」

 哥哥が現世に別れを告げ、アニタは断腸の思いで悲しみ、食べ物も食べられず、「彼のが亡くなって何日かは、私はつらくて話をすることもできなくて、自分が突然10歳老けたように感じました。私はずっと天に問いかけていました、どうしてこんなことに?」

 アニタは哥哥にもう一度ありがとうと言いたいと思っているが、もうその機会はない。「私が20周年(2002年)コンサートの準備を始めた初日から、彼は自分から私に言っていました、最終日には必ず来る、特別ゲストをしなくちゃならないからね、と。彼のこの言葉は私にとってのカンフル、非常に大きな心の支えになりました。あのコンサートはとても大変で、プレッシャーもとても大きく、やっと最終日を迎えられ、彼と分かち合いたいと思っていました。あの日彼が会場に来たとき、すでに体調が悪く、彼は胃が痛いと言っていました。しかし彼がステージに立つと、ファンには全く気づかもせず、パフォーマンスが終わると、彼は先に帰ってしまい、私は彼にお礼を言う機会もありませんでした。」

 彼は、自分の家族よりもっと彼女を理解してくれる、と言う。ボーイフレンドとの交際さえ彼にチェックしてもらう。「彼はいつまでも私の兄で、私達の関係の親密さは……」彼女は適切な形容詞が考えつかず、「要するに、単純な言葉では表現できないような、私の心の中にやきついているのです。」

 アニタが私にこの話をしてくれた時、そのからだはすでに病気を抱えていた。その年の12月30日、彼女も私達から離れていってしまった。


 哥哥の従軍記者に


 香港では音楽界にしっかり足場を踏み固めた86年6月、レスリーは初めて台湾に遠征した。台湾テレビの新しいドラマ《福禄寿喜》の宣伝ために。台湾テレビの連続ドラマの視聴率はライバルの華視テレビよりずっと見劣りしていたため、このドラマのプロデューサー兼主役の帰亜蕾が新しい試みとして、破天荒にも香港の歌手にテーマ曲を依頼した。ちょうどミス香港のパフォーマンスが終わったばかり、まだ映画撮影のある哥哥は、徹夜の撮影の後、早朝に空港へ行き、二泊三日の台湾行きを開始した。その時の一行は3人、哥哥とマネージャーの陳淑芬を除き、記者は私だけ、ずっと張り付いて直撃取材を行う従軍記者だった。

 ジャケットを脱いで道を急ぐ

 台北に到着し、帰亜蕾自ら数人の主役を率いて、空港まで迎えに来て、蕾姐さんは哥哥に大きな花束を送った。花はグラジオラスをメインにカスミソウがいっぱい付けてあり、哥哥の好みとはかなりかけ離れたもので、 結果「それ」は私の部屋に3日間横たわることになった。

 すでに5日連続徹夜の哥哥は、台湾でも全く休む機会はなく、宣伝担当者は隙間なく行程を編み、朝から明け方まで、記者会見、歌を歌い、ダンス、写真撮影、ビデオ録り、更には記者たちと夜食まで一緒にせねばならなかった。更に特筆すべきは:韓甦がレスリーを義理の息子にしたことです。韓甦は大ベテランの俳優で、しかし哥哥にとっては会ったことも無い人で、宣伝の為に義理の父を増やすことできず、いかに人付き合いの良い彼でも、断固として婉曲に断った。

 翌日の明け方、哥哥は高雄に飛んで、端午節の特番の為に撮影の必要があったが、午後には台北に引き返して、西門町でファンの前に出なければならず、高雄滞在時間は1時間余り。

 飛行機をおりた後で、送迎車がないことを知り、タクシーで蓮子潭へ行かなければならず、しかし道路封鎖で車は進入できず、撮影場所へ走っていくはめに。哥哥はジャケットを脱ぎ、手で持って道を急いで、15分以上走り、汗はだらだら流れていたが、怒り出すようなことは全くなかった。

 撮影現場に到着したが、テレビ局は他の番組のリハーサルをして、待てど暮らせど哥哥の録画の順番は回って来ず、スタッフはいい加減にも:「次の便(飛行機)にしなよ、どうせ間に合わないよ。」やっと哥哥の撮影の番になり、たった5分歌っただけで終わり、引き続き再び道を急いだ結果、何とか予定通りの便に間に合ったのだ。



訳 by Naomi


続く










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